被爆地ヒロシマが被曝を拒否する伊方原発運転差止広島裁判
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「ふるさと広島を守りたい」ヒロシマの被爆者と広島市民が、伊方原発からの放射能被曝を拒否し、広島地方裁判所に提訴しました

第16回口頭弁論(2019年8月7日)における伊藤意見陳述


 以下は、伊方原発広島裁判本訴第16回口頭弁論における、原告団伊藤正雄副団長の意見陳述全文である。

 1986年、チェルノブイリ事故が起こると、国際的な核推進グループ(IAEA、核推進各国政府、世界核協会など)は、この事故に対する対応を模索し始めた。彼らの出した結論は、放射線被曝の許容線量の、事実上の引き上げであった。これが具体的な各国政府への勧告として登場したのが、国際的核推進グループの一翼を担う国際放射線防護委員会(ICRP)の2007年勧告であった。
 2007年勧告では、原発過酷事故(原子力緊急事態)が発生した時の対応を定め、①緊急時被曝状況(原発過酷事故が発生した時の状況)と③計画被曝状況(通常運転の状況)、及び②現存被曝状況(原発事故が起こって放射能量が通常運転時の状況まで下がらない状況)の3つの状況に分類した勧告を各国政府に提案した。そして緊急時被曝状況の避難基準を20mSvから100mSvとしたのである。(2009年勧告)
 これは100mSvまでの被曝は人体に害がないと宣言したのに等しい。「100mSvまでの低線量被曝では人体に害がない」とする言説を放射能安全神話と呼ぶ。
 つまりチェルノブイリ事故以降、国際的な核推進グループは、「放射能安全神話」を世界中に広めることによって、チェルノブイリ事故の打撃を乗り切ろうとしたのである。この「放射能安全神話」のICRP勧告が最初に適用された事例が、2011年に発生した福島原発事故である。

 しかし放射能安全神話は学術的には早くに破綻をきたしている。

 1979年、アメリカ・スリーマイル島原発事故直後に、その報告が発表された全米科学アカデミーの「BEIR Ⅲ」(ベア・スリー)委員会のテーマはそのものズバリの「低レベル電離放射線被曝の集団への影響」(The effects on populations of exposure to low levels of ionizing radiation」だったが、「BEIR Ⅲ」委員会は「電離放射線被曝に安全量はない」(There is no safe dose of ionizing radiation)とした。以降これが全世界の科学者の共通認識となっている。また「電離放射線被曝に安全量はない」との見解に最後まで抵抗を示していた日本の放射線影響研究所も、そのLSS第14報(2014年)で、「被曝リスクの安全しきい値は被曝ゼロである」としてこの見解を認めるに至っている。
 このように「100mSv以下の被曝は安全である」とする「放射能安全神話」は、学術的には早くから破綻をきたしているのだが、福島原発事故以降、国際的核推進グループは、放射能安全神話の宣伝を、世界中で、特に日本で強めている。
 自ら広島原爆被曝者である伊藤正雄の意見陳述では、その被曝知見の中で、家族・親戚の被曝体験と広島原爆の放射能との因果関係を控えめに述べてはいるが、控えめなだけに、「放射能安全神話」に対する広島からの、そして原爆被曝者からの鋭い反撃ともなっている。

(原告団事務局)



 以下伊藤意見陳述全文。

▼PDF
被爆者原告 伊藤 正雄 A4版4枚(解説付)



伊方原発運転差止広島裁判 2019年8月7日 第16回口頭弁論期日
意見陳述要旨


原告:伊藤 正雄(広島原爆被爆者)
広島市佐伯区在住



 本日は意見陳述の機会を与えてくださり、感謝申し上げます。
 私は1941年生まれで、現在78歳です。
 広島に原爆が投下された時、私は4歳でしたが、爆心地から3.2kmの高須の電停近くの家におり、難を免れました。しかし、当時袋町小学校の6年生だった兄は学校で被爆し、その日の夜遅く父が家に連れ帰りましたが、8月29日に息を引き取りました。当時小学校3年生だった姉はその時爆心地に近い空鞘町の母の実家に行っており、おそらく即死だったのでしょう、遺骨さえもみつかりませんでした。
 父はすぐに軍の命令で市内の救助活動に出、その後も何日も救助活動に携わりました。その父は、被爆5年後から体調を崩しました。体がだるくてだるくて、動けなくなるのです。いわゆる「原爆ぶらぶら病」です。半年周期で入退院を繰り返しました。そのため生活は苦しくなり、私も高校を休学して働きに出なければなりませんでした。父は1970年に肝臓がんで原爆病院で亡くなりました。

 私は特段に四国電力さんに恨みや怨念があるわけではありません。
 私が中学生だった1956年、出来たばかりの原爆資料館で「原子力平和利用博覧会」が開催されました。これは、USISと読売新聞などの新聞社が共催した「平和のための原子力」を主題とする博覧会で、東京、名古屋、京都、大阪に続いて5月から6月にかけて広島で開催されました。核へのアレルギーを緩和して、原発推進の世論を喚起しようとする狙いがあったものと思われます。
 私も会場にでかけ、核物質を扱うための「マジックハンド」に心を奪われました。ガラス板のこちら側で「マジックハンド」を操作すると、ガラス板の向こう側の水差しからコップに水を注いだり、筆で字を書いたりすることができます。
 アメリカの技術力に驚愕するとともに、「敗戦によって国土は縮小し資源の少ない我が国の生きる道は、原子力の平和利用しかない」と思ったものです。敗戦直後の電力事情は「水主火従」――つまり水力発電が主で、その発電所も空襲で破壊されており、電力供給は相当に厳しいものでした。連日、停電や、「蛍火」といって、灯している電灯が電圧の不足で細く暗くなるのを体験してきた中で感じたことでした。
 その後の経済成長に伴うエネルギー源の確保に、原発の果たした役割は大きなものがあったと思います。経済人になった私は、どちらかというと原発推進派というか、擁護派的な立場をとってきました。

 しかしそれも、「福島第一原発事故までは」ということです。それまで、「日本の原発は絶対に事故を起こさない」という安全神話にどっぷりと浸かり、それを前提に原発擁護派的な立場に立っていた私ですが、福島第一原発事故によってその前提は脆くも崩れ去りました。
 さらに、私事ではありますが、福島第一原発3号機で爆発が起こった翌日の2011年3月15日、3歳年下の妹が甲状腺障害による多臓器不全で亡くなりました。医師は「今の医学では直接原爆に結び付けることはできないが、100パーセント関係ないとも言えない」と言いました。
 その妹が亡くなる直前まで気をもんでいたことがありました。それは妹の3人の息子たちの健康です。妹の上の息子は、妹が亡くなる5年前に、甲状腺のがんで手術を受けました。それから数年たって、今度は下の息子がまた同じように甲状腺のがんで手術を受けました。3人の息子のうち2人までが甲状腺のがんで手術を受けたのです。それは、自分が原爆に被爆し、息子たちが被爆2世であるせいではないかと妹は気に病んでいたのです。
 放射線被曝の恐怖は、何年経っても拭えるものではありません。「原発は核の平和利用であって、原爆とは違う」と考えていた私ですが、この時、放射線被曝の苦しみや恐怖をもたらすという点では、原爆と原発はまったく同じであるということに思い至りました。森瀧市郎さんの「核と人類は共存できない」という言葉は、まさに「先見の明」というべきものであったと思いました。

 そんな中にあっても、電力各社さんの努力には敬意を持っていました。福島第一原発事故によりすべての原発が運転を控え、日本の電力は賄えるのか、産業活動は大丈夫かと、本気で心配しました。しかし、2013年9月から2015年8月までの2年間、「原発ゼロ」であっても、1日たりとも電力不足で停電することなく、国民生活と産業活動が維持されてきたことには感謝しております。
 にもかかわらず、電力各社さんが原発再稼働に舵を切り替えられたことに失望をし、憤りを覚え、本案訴訟に踏み切りました。

 原発について、被爆者として私が最も危惧することは、放射線被害の甚大性です。
 私の父が被爆5年後から体調を崩したのは、原爆投下後、放射性物質のたちこめる広島市内で兄を探し、さらに何日も救助活動に携わったためだと思います。妹の病気も、医師の言葉どおり、「原爆に100パーセント関係ないとも言えない」と思います。3歳年下の妹は、原爆投下時1歳で、私と同じく高須の家におりました。高須は、いわゆる「黒い雨」が降った地域です。「黒い雨」として降ってきた核分裂生成物が幼かった妹の体に大きな影響を与えていた可能性があります。
 このように、原爆投下から何年も何十年も経っても、広島では多くの人たちが放射性物質によるいわゆる「低線量被曝」に原因があると思われる健康被害で苦しみ続けておりましたし、現在も苦しんでいるのです。
 しかし、広島原爆で核分裂を起こしたのはわずかに1kg弱のウラン235でした。
 翻って、伊方原発の3号機には常時約74トンのウラン燃料が装荷されています。そのうちの約4%、約3トンがウラン235だと考えられます。原爆とは桁違いの量のウラン235です。ここから生まれ続ける核分裂生成物が、原発過酷事故で一部でも環境中に放出されれば、広島原爆どころではない広い範囲の、非常に多くの人々が放射線被害に苦しむことになるでしょう。

 現在、電力を原発で供給しなければならない必然性はどこにもありません。
 運転すればするほど「死の灰」を生み出し、地震・津波、火山噴火ばかりでなく、岩国基地を発着する米軍機の航空事故やテロによる過酷事故発生の可能性も憂慮される伊方原発の運転をただちに止めていただきたい。

 どうかこれ以上、私たち被爆者に放射線被曝による苦しみを与えないでください。時あたかも、昨日は74回目の原爆忌でした。
 再度訴えます。「これ以上、私たちに放射線被曝による苦しみを与えないでください。」

 ご静聴ありがとうございました。

※USIS:United States Information Service(アメリカ合衆国広報文化交流局)


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