被爆地ヒロシマが被曝を拒否する伊方原発運転差止広島裁判
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「ふるさと広島を守りたい」ヒロシマの被爆者と広島市民が、伊方原発からの放射能被曝を拒否し、広島地方裁判所に提訴しました



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発行に至るいきさつ(前書きにかえて)

 2021年11月4日、私たちが訴えている伊方原発3号機運転差止仮処分申立てに対して広島地方裁判所の判断が出ました。
(吉岡茂之裁判長。以下この判断を「吉岡決定」と呼びます。)

 吉岡決定は私たちの申立てを却下する決定でしたが、いまそのことが問題ではありません。問題なのはその反憲法的な内容です。

 私たちは直ちに抗議声明を発出することにし、事務局内部に声明起草委員会を設置し、議論を開始しました。
 しかし声明起草のために吉岡決定の内容を検討していくと、声明レベルでは全く不十分で、本格的な吉岡決定批判の文書を作成し、世の中に訴えていく必要があるという結論に達しました。
 そこで声明起草委員会を「吉岡決定対策委員会」に衣替えし、吉岡決定の本格的批判・検討作業に入りました。こうして批判文を起案し、何回かの会合を重ねた結果、この小冊子が出来上がりました。
 どうかご一読のうえ、吉岡決定の持つ反憲法的性格への理解を深めていただきたいと存じます。二度とこのような司法判断が世の中に現れないようにしなければなりません。

 マスメディアもこの問題の重要性に対する理解は極めて浅く、この上は私たちの力で世論形成を行う必要があります。
 何卒世論形成にお力をお貸しいただきますよう、よろしくお願いいたします。

2022年3月11日
伊方原発広島裁判事務局
吉岡決定対策委員会

目 次

吉岡決定、5つの問題点

判断停止と主張のねじ曲げ
 地震は予知予測できない
 「地震予知連絡会」の格下げ
 政府中央防災会議も認める
 地震規模も予測できないのにその最大の揺れ(最大地震動)が正確に予測できる筈がない
 1000ガル、2000ガルなどはザラ
 従来の原発裁判との違い
 「吉岡決定」の論理
 「吉岡決定」が買ってでた理由

四国電力もここまでいわなかった
 「吉岡決定」の強引な解釈
 それができるなら苦労はしない
 「吉岡決定」の一知半解

「規制委審査合格」は「安全」を担保するのか
  「審査合格で安全とは申しません」(規制委田中委員長=当時)
  原発再稼働に規制委は関与しない
  裁判所に求められる最低限の仕事

伊方最高裁判決の枠組みをなぜ放棄したか
  伊方最高裁判決とは
  「伊方最判」司法判断の枠組み
  吉岡決定には都合の悪い枠組み
  伊方最判の立証責任論

永年の努力で打ち立てられた立証責任転換論
  四大公害裁判とは
  原発裁判における「立証責任転換論」
  審査合格は安全の立証にならない
  吉岡決定「立証責任転換論」放棄の意味するところ

「伊方原発が事故を起こさなければ保全は認めない」
  大量の放射性物質の放出が発生・継続している状態とは
  地震の専門家でも不可能なこと
  反憲法的な吉岡決定



戦後最悪の司法判断の一つ 広島地裁吉岡決定

 2021年11月4日、広島地方裁判所は、私たちが訴えている伊方原発3号機の運転差止仮処分申立てに対して却下決定を下しました(吉岡茂之裁判長、右陪席・中井沙代裁判官、左陪席・佐々木悠土裁判官)。
 この決定(以下「吉岡決定」)は、日本国憲法の最も高い価値である国民一人一人の「人格権」を守り、一人一人の「いのち」や身体、健康の安全を保障し、一人一人が幸福にその生涯を全うする権利を持っている、という立場から見ると、戦後司法が下した判断の中では最悪の一つということができます。
 吉岡決定は私たち住民の訴えをねじ曲げて判断を下しました。そればかりではありません。
 これまで、原発裁判や公害裁判を通じて、司法界を含め、戦後多くの人たちが営々として築きあげ、国民の「人格権」を守り抜いてきた努力の成果を、こともなげに踏みにじっているからです。
 吉岡決定の下では、国民一人一人は、何もかも犠牲にし、自己の経済的利益のみを追求する大企業の奴隷であるかのようです。吉岡決定のような悪質な司法判断は、この社会から葬りさらねばなりません。


【画像説明】2021年11月4日広島地裁前にて仮処分却下決定を受けて報告の旗出しをする原告団。後ろの横断幕には「『地震の予知予測はできない』が最新の科学的知見」と債権者の主張が書かれている。


吉岡決定、5つの問題点



 吉岡決定の問題点は、その非論理的書きぶりは別としても、大きな点は次の5点に集約されるでしょう。

① 住民側の訴えを無視するならまだしも、その主張を自分に都合のいいようにねじ曲げて解釈し、その解釈に基づいて決定を下していること。 また同時に肝心要の訴えに対しては、司法として判断停止を決め込んでいること。

② 平成4年の伊方最高裁判決(後で詳述)の司法判断の枠組みを、合理的な理由もなしに採用しなかったこと。

③ ②と大いに関連するのですが、主張・立証責任を全面的に住民に負わせたこと。
(この点が、これまでの例えば四大公害裁判やこれまでの原発裁判で打ち立てられた「立証責任論」を無視し、圧倒的な力を持つ大企業を一方的に擁護する大きな問題点です。国民一人一人に「大企業の奴隷の論理」を押しつける結果となっています。)

④ 原子力規制委員会の規制基準に適合しその審査に合格することは、当該原発の安全を担保するもの、と信じていること。いいかえれば、吉岡決定は、新規制基準は原発の「安全」に関する基準であり、規制委は当該原発の「安全」を審査していると思い込んでいること。

⑤ 国民一人一人の人格権は、日本国憲法上最高の法的価値を持つとされ、それゆえに、その「妨害予防権」を認め、その請求権も認めているのですが、吉岡決定は事実上「妨害予防請求権」を有名無実化しようとしていること。

 いずれの一点をとってみても、司法判断としては悪質極まりなく、このまま見過ごしておくわけにはいきません。以下一つ一つを少し詳しく見ながら、吉岡決定の「悪質さ」の本質を丸裸にしていきましょう。



判断停止と主張のねじ曲げ


 吉岡決定は、私たち住民(債権者)の訴えをことごとく否定するものでしたが、この住民(債権者)の訴えは、専門的・学術的知識や知見が必要なほど難しいものではありません。
 その訴えは債権者準備書面(10)の第8に簡潔にまとめられています。短いので引用します。

「8 債権者らの主張の構成について
 債権者らは、①強震動予測を用いて原発敷地毎に最大地震動を予測するという規制基準の枠組み自体が不合理であることの主張を主位的主張、 ②債務者の最大地震動予測の結果が実際の観測記録に照らして不合理であることを予備的主張とする旨を撤回し、①と②の各主張の関係について選択的主張と改める。」
債権者準備書面:「仮処分事件」は民事訴訟。「金を貸した。返せ。」という事件と何ら本質的には変わらない。 訴えた側が債権者、訴えられた側が債務者というわけである。今回仮処分事件では、「訴訟物」はもちろん金ではない。 申立人の「人格権」である。もう少し正確に言えば、「人格権」が侵害されそうになっているので、その予防をする権利(妨害予防権)である。 この権利は当然法的に保護されているので、予防を請求する権利がある。これが妨害予防請求権である。 従って今回仮処分事件では、訴訟物は申立人の「妨害予防請求権」ということになる。 申立書を提出した後は裁判官の前で債権者・債務者双方が主張をし合うことになるのだが、この主張の中身を書面化したものが「準備書面」である。

主意的主張・予備的主張:債権者は自分の権利を認めさせるために、主張を行うわけだが、主な主張を「主意的主張」、この主張が認められなかった場合に備えて副次的な主張を行う。 これが「予備的主張」である。準備書面(10)で債権者がいっていることは、もう「主意的主張」「予備的主張」の区別はしない、どちらを取り上げてくれても結構です、ということだ。重要度の区別はしない、という宣言でもある。


 この準備書面が主張していることは、

①「強震動予測」という手法を使って、原発敷地ごとの将来襲う最大地震動を予測し、それを原発の耐震基準とする現在の原子力規制委員会の「規制基準」そのものが不合理である、規制委の規制基準が根本から間違っている

ということです。

強震動予測:強震動予測は地震学の学問分野で、震源断層モデルから最大地震動を予測することを目指す学術手法。 モデルの設定から計算して結論を求めるまで仮説と推測に全面的に依存するため、地震または地震動の精確な予測をするという意味では、今のところ研究段階に止まり、実際の地震を予測するという意味では実用レベルに達していないとされている。 しかし実際に発生した地震の震源域を推定したり、地盤構造のモデル化の推測手法として、研究段階では大いに利用されている。

地震は予知予測できない


 「原発敷地ごとの将来襲う最大地震動を予測し、それを原発の耐震基準とする現在の原子力規制委員会の『規制基準』そのものが不合理である。」という主張には少し説明の必要がありそうです。

 かつて日本の地震学者は、「地震の予知予測はできる」と信じていた時期があります。さほど昔の話ではありません。つい1990年代までの話です。それが1995年に発生した「阪神・淡路大震災」(兵庫県南部地震)を経験して、「地震は予知予測できない」と変化していきます。そして2011年の東北地方太平洋沖地震で、「地震は予知予測できない」とする考え方が決定的となりました。
 政府に「地震予知連絡会」という学術研究組織があります。政府として「地震予知の実用化を促進する」ことが閣議了解された(1968年5月)のをきっかけに成立しました(事務局は国土地理院)。当時は本気で「地震は予知できる」と政府・学術界は意気込んでいました。

 実際には、地震予知連絡会が地震の予知に成功したことは一度もありませんでした。

 地震予知連絡会は95年の阪神・淡路大震災に衝撃を受け、2011年の東北地方太平洋沖地震に「地震は予知できる」という考え方が幻想であったことを思い知らされたのです。


【画像説明】1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の惨状
【写真出典】神戸市webサイト「阪神・淡路大震災 写真から見る震災」より。(画像をクリックすると当該webサイトが開きます)

「地震予知連絡会」の格下げ

 政府・地震調査研究推進本部のWebサイトには「地震予知連絡会の50年」という項目が設定され、そこに次のように記述されています。
「 しかし、1995年1月に発生した兵庫県南部地震を契機に地震防災特別措置法が制定され、地震活動の評価は地震調査研究推進本部がおこなうことになりました。また、建議でも同様の見直しがおこなわれ、当連絡会の役割は「地震予知に関する情報の交換と総合的判断を行う」ことから「観測研究の質の向上を図るための地震予知観測研究に関わる緊密な情報交換の場」へと変更されました。
  その後、2011年3月に発生した東北地方太平洋沖地震を予知できず、現状では地震予知が困難であることが改めて示され、我が国の地震研究の今後が大きく問われました。」
 こうして地震予知連絡会は「地震予知に関する総合的判断を行う組織」から「情報交換の場」へと格下げとなりましたが、「地震は予知できない」とする最新の地震に関する科学的知見を政府も認めるようになったのは、2011年の東北地方太平沖地震以降のことなのです。

政府中央防災会議も認める

 2017年9月になると、今度は政府の「中央防災会議防災対策実行会議」の「南海トラフ沿いの地震観測・評価に基づく防災対応検討ワーキンググループ(WG)」が中央防災会議に「確度の高い地震の予知予測はできない」とする報告書を提出します。その概要から引用します。
「現時点においては、地震の発生時期や場所・規模を確度高く予測する科学的に確立した手法はなく、大震法に基づく現行の地震防災応急対策が前提としている確度の高い地震の予測はできないため、大震法に基づく現行の地震防災応急対策は改める必要がある。」
 ここで「大震法」というのは、1978年に施行された「大規模地震対策特別措置法」のことで、この法律は「地震の確度の高い予知予測はできる」ことを前提にした法律です。そこで想定されている「地震応急対策」も地震が予知できることが前提で策定されています。
 WG報告は、「地震は予知予測できないのだから、大震法の応急対策は改めなければならない。」と述べているわけです。
 この報告は直ちに中央防災会議で了承されました。「地震の確度の高い予知予測はできない」とする考え方はこうして日本政府公認の「最新の科学的知見」となったのです。


【画像説明】2017年9月26日官邸2階ホールで「第10回防災対策実行会議」が行われた。資料1「検討の背景と報告のポイント」より当該カ所を抜粋。当時の菅内閣官房長官、小此木内閣府特命担当大臣(防災)、野田総務大臣、石井国土交通大臣も出席し、了承されている。
【資料出典】https://www.bousai.go.jp/kaigirep/chuobou/jikkoukaigi/10/index.html(画像クリックで当該webページが開きます)

地震規模も予測できないのにその最大の揺れ(最大地震動)が正確に予測できる筈がない

 ここで「地震予知」とは地震が「いつ」、「どこで」、「どの程度の規模」で発生するかの3つを正確に言い当てることを意味しています。
 これは前述のWG報告が、「地震の発生時期や場所・規模を確度高く予測する科学的に確立した手法はなく」と述べている通りです。
 また「予測」とは上記3つのうち1つ乃至2つを正確に言い当てることを意味しています。

 「地震の規模」の予測もできないのに、その地震で発生する「揺れ」(地震動)の正確な予測などできる筈がありません。気象庁も2020年3月には、永年の地震予知課を廃止しました。ついに兜を脱いだのです。

 一方原子力規制委員会の新規制基準では、原発の耐震基準を「予測」で決める仕組みになっています。

 具体的にいうと、原発敷地ごと、場合によれば同じ敷地内の原子炉ごとに、将来襲う最大・最強の地震動を仮説と推測に基づいて計算によって求め、これを原発の耐震基準としています。計算によって求められた最大・最強の地震動のことを原子力業界の用語で「基準地震動」といいます。



 この計算手法が「強震動予測」という学術手法です。前述準備書面(10)の①で債権者側が主張していることは、
「地震の確度の高い予知予測は科学的に見て不可能。地震の規模すら予測できないのに、その地震から発生する最大地震動など、強震動予測という手法を使って精確に予測することはできない。科学的に見て不可能なことを前提にしている現在の規制基準は不合理だ。」
ということです。

 「最大の地震動は計算によって精確に求められる。」という考え方は、日本に原発が導入されたころからの考え方です。そのころは、「地震は予知予測できる」と信じられていました。また、「ガル」で表示する地震動もさほど大きな数字ではありませんでした。なにしろ地震学者が本気で「重力加速度(980ガル)以上の地震動はありえない。」と信じていた時代です。「最大の地震動は予測できる。」という考え方は、現在の新規制基準になっても変わりません。しかし「地震の精確な予知予測はできない」が最新の科学的知見ですから、この考え方はもう捨てなければなりません。

 

 債権者が裁判所に判断を求めているのは、まさにこの点です。吉岡決定の回答はこの後で見ることにして、次に②の主張を見てみましょう。

1000ガル、2000ガルなどはザラ

 ②の主張は、仮に原発敷地を襲う最大最強の地震動を予測するにしても、伊方原発の耐震基準650ガル(基準地震動650ガル)は、現実に日本で発生している地震の地震動(揺れ)に対してあまりに低レベルであるという主張です。
 というのは、1995年の阪神・淡路大震災以降、日本で整備された地震活動を客観的に観測記録する強震観測網(K-NETや気象庁の観測網)で観測された地震動は、1000ガル、2000ガルなどという最大地震動はしょっちゅう観測されています。下に「ガルで見る日本の地震の最大地震動」の表を掲げていますので、参照してみてください。
 ②の主張は、「原発は本来もっとも安全性が高くなくてはならない。日本では、1000ガル、2000ガルなどという地震動はしょっちゅう発生している。そうした地震動に比較して伊方3号機の耐震基準(基準地震動)650ガルはあまりに低レベルであり、地震に対して脆弱ではないか。危険だ。」というものです。

ガル:「ガル」(gal)は地震の揺れ(地震動)を客観的・科学的に示す指標の加速度の単位。ちなみに物体が自由落下するときの加速度(重力加速度)は980ガルである。地震の揺れを客観的・科学的に示す指標は他にもいくつかあるが、原子力規制委員会の耐震基準では、ガルしか採用していないので、私たちも「ガル」で比較している。

 ここで債権者が展開している主張は、決して高度な科学技術論ではありません。これを判断するにあたって、特別に地震に関する高度な知見や専門的知見も必要ありません。①にしても、②にしても健全な常識レベルで判断できる主張です。しかも、「原発には特別な高い安全性が求められる。」という考え方は、社会常識以上に、これまでの原発裁判で積み上げられた法理にまでなっています。

ガルで見る日本の最大地震動
(画像クリックするとPDFでご覧いただけます)


従来の原発裁判との違い

 確かに、①の主張(「地震は予知予測できないのに、規制基準は、原発敷地を襲う最大地震動は確度高く予測できることを前提としており、非科学的で不合理だ」)にしても、②の主張(「伊方原発の基準地震動650ガルは、現実に日本で発生している地震動に比較するとあまりに低レベルであり、伊方原発は地震に対してあまりに脆弱すぎる」)にしても、これまでの原発裁判では全く主張されてこなかった論点です。 

 これまでの裁判で主張されてこなかったのは、やむを得ないことです。

 ①の主張は、1995年の阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)や、2011年の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)を経て、はじめて政府・地震学者レベルで確立された新しい地震学の知見です。
 また②の主張も、1995年以降、全国に強震観測網が整備され、日本を襲う地震の地震動が、客観的・科学的に観測記録されるようになってはじめて原発の基準地震動と現実の地震動が比較できるようになったからこそできる主張です。
 これまでの原発裁判では、基準地震動の策定の仕方(基準地震動策定の過程)を問題にせざるをえなかったのですが、全国に強震観測網ができてはじめて、基準地震動作成の結果と現実の地震動を比較評価できるようになった、といういい方もできます。(下図参照のこと。)

K-NETMAP
1995年の阪神・淡路大震災以降、国立研究開発法人防災科学技術研究所(防災科研)が全国に整備した強震観測網が、K-NET(Kyoshin Network:全国強震観測網)及びKiK-net(Kiban Kyoshin Network:基盤強震観測網)である。マップにはK-NETの観測点(赤丸)とKiK-net(黄丸)がドットしてある。K-NETは全国を約20km 間隔で均質に覆う1,000箇所以上の強震観測施設からなる強震観測網。地震被害に直接結びつく地表の強震動を均質な観測条件で記録するために、各観測施設は、一部の例外を除き統一した規格で建設され、自由地盤上(地表)に強震計が設置されている。KiK-netは、政府の地震調査研究推進本部が推進している「地震に関する基盤的調査観測計画」の一環として、防災科研が、高感度地震観測網(Hi-net)と共に整備した強震観測網。全国約700 箇所に配置され、各観測施設には観測用の井戸(観測井)が掘削されており地表と地中(井戸底)の双方に強震計が設置されている。
K-NET及びKiK-netの整備によって、日本ではじめて地震活動を客観的、科学的に把握できるようになった。
【画像引用】「NIED 国立研究開発法人防災科学技術研究所」webサイトより(画像クリックで当該webページが開きます)

「吉岡決定」の論理

 それでは、債権者の主張を否定する吉岡決定の論理をみてみましょう。吉岡決定の論理構造も極めて単純で、専門的な法律論争をするのでない限り、決定文本文(A4版110枚)を参照するまでもなくその要旨(A4版4枚)を参照すれば十分です。

 決定文要旨はまず次のようにいいます。
「基準地震動策定の合理性、ひいては超過地震発生の危険性をめぐる評価の合理性について四国電力に主張、疎明責任を負わせることは、原子力規制委員会による極めて高度な最新の科学的、専門技術的知見に基づく総合的判断の過程を、そのような知見を持ち合わせていない裁判所が事後にやり直すことと実質的に同義である。」
一見意味不明な文章です。
「超過地震発生」とは伊方原発敷地を、基準地震動650ガルを越える地震動が襲うような地震が発生することです。しかし、この文章、何かがおかしい。もう一度よく読んで見ましょう。
「基準地震動策定の合理性、ひいては超過地震発生の危険性をめぐる評価の合理性について・・・」
 驚くべきことに、ここでは「基準地震動策定の合理性」が、「超過地震発生の危険性をめぐる評価の合理性」になっているのです。
 債権者が判断を求めている「基準地震動策定の合理性」は、「伊方原発を650ガル以上の地震動が襲うかどうかの問題」にすり替わっています。

 債権者は決してそのような主張をしていませんでした。「基準地震動策定の合理性」とは、「地震の予知予測はできないのに、基準地震動を予測で計算して耐震基準を決定していることの合理性」の問題でした。
 それが吉岡決定では、「ひいては」とのひと言で、問題がすり替わっているのです。まるで安物の手品です。

 そうして問題(裁判所が判断を求められている問題)をすり替えておいて、「裁判所は規制基準やその審査の妥当性について判断できない、そのような知見をもちあわせていない。」と述べています。

 結局①の問題(繰り返しますが「地震の予知予測はできないのに、基準地震動を予測で計算して耐震基準を決定している合理性」)については、決定文のどこをひっくり返しても吉岡決定は明確な判断を示していません。

 ただ1箇所、要旨の中に次のような記述があります。
 「上記2によれば、新規制基準が不合理である旨の主張(現時点では地震の正確な予知は不可能なのに、新規制基準はそれが可能であることを前提にしているなど)や四国電力による地震動の想定は新規制基準に基づく審査の内規(引用者注:「地震審査ガイド」のこと)に沿っていない旨の主張は失当である。」
 これは一見、債権者の主張を否定したように見えますが、実はそうではありません。「上記2」というのは「司法判断の枠組み」のことです。これは後でも出てくる「平成4年伊方最高裁判断の枠組み」を放棄した問題と密接に絡んでいますが、要するに、「四国電力は、原子力規制委員会ではない。従って規制委の基準の不合理や審査の落ち度について四国電力に弁解、説明させるのは酷だ。」という判断枠組みを吉岡決定は提示していることを指しています。

 この判断枠組みは一見理屈が通っているように見えますが、典型的な形式論理です。というのは規制委の落ち度であろうが、四国電力の落ち度であろうが、落ち度があれば福島原発事故のような重大事故発生の可能性を孕みます。そこがまさに債権者の危惧するところです。平たくいってしまえば、規制委も四国電力も重大事故発生の可能性については一蓮托生で、規制基準の不合理やその審査の落ち度について疑念が出されれば、四国電力にはその説明責任があるのです。しかし吉岡決定は、形式論理で四国電力の説明責任を免除し、合わせて債権者が提出している①「地震の予知予測はできないというのが最新の科学的知見なのに、規制委は地震動の確度の高い予測はできることを前提に原発の耐震基準を決めている。これは不合理だ。」という命題に対する判断を避けています。

 債権者は、要旨や決定文がいうように裁判所に「極めて高度な最新の科学的、専門技術的知見に基づく総合的判断」について審理してくれなどとは一切頼んでいません。大体そのようなことは学術界で行うことで、司法裁判でおこなうようなことではありません。
 債権者が、裁判所に判断してくれといっているのは、

「地震は予知予測できないのが最新の科学的知見なのに、現在の規制基準は少なくとも最大の地震動は事前に精確に予測できることを前提に成立しているのは不合理であり、危険だ。国民の人格権を守るという立場から、その合理性・妥当性を判断してくれ」

という命題なのです。

「吉岡決定」が買ってでた理由

 いってみれば、吉岡決定は、債権者が頼みもしないのに、自ら買ってでておいて、「いや、それは知見がないからできません」と断っています。いや、そんなことは頼んでいませんよ・・・。

 吉岡決定が、頼まれてもいないことを自ら買ってでている理由は明白です。
 「地震の予知予測はできない。地震規模も予測できない。規模の予測もできないのに、ましてや最大地震動の確度の高い予測などはできない」という地震学における最新の知見を否定できないからです。
 この地震学の最新の科学的知見を認めるやいなや、「規制基準は不合理」となり、伊方3号機の運転差止を認めざるをえなくなります。

 だから、頼まれてもいない「原子力規制委員会による極めて高度な最新の科学的、専門技術的知見に基づく総合的判断の過程を、そのような知見を持ち合わせていない裁判所が事後にやり直す」仕事を自ら買ってでて、「裁判所は、そのようなことはできない」と述べざるを得なくなったのです。

 つまり債権者の論点を強引にすり替えて、すり替えた論点に対して「できない」と回答しています。
 「論点のすり替え」-これは典型的な詭弁論法、それも極めて初歩的・幼稚な詭弁論法です。裁判所がこのような幼稚な詭弁論法を使うようになっては司法の自殺行為といわなくてはなりません。司法にとって命は、「事実」と「筋の通った論理」の筈です。

 吉岡決定は、「事実」の代わりに「論点のすり替え」を使い、「筋の通った論理」の代わりに「詭弁」を弄してこの決定文を書いているのです。

吉岡決定の論理構造



四国電力もここまでいわなかった



 吉岡決定は、債権者の②の主張をどのように否定したのか、次にそれをみてみましょう。債権者の主張②は
「原発は本来もっとも安全性が高くなくてはならない。日本では、1000ガル、2000ガルなどという地震動はしょっちゅう発生している。そうした地震動に比較して伊方3号機の耐震基準(基準地震動)650ガルはあまりに低レベルであり、地震に対して脆弱ではないか。危険だ。」
というものでした。

 これに対して吉岡決定は次のように述べます。
「本件は、民事保全事件であって、超過地震発生の危険性は、被保全権利(人格権に基づく伊方原発運転差止請求権)の要件であるから、その法的効果の発生によって受ける住民らに主張、疎明責任があると解すべきである。」
 ここで言っていることは、超過地震発生(伊方原発敷地を基準地震動650ガル以上の地震動が襲うこと)の危険性についてその立証を行うのは住民側である、ということです。

 何度も繰り返しになりますが、債権者は伊方原発を650ガル以上の地震動が襲う、だから危険だ、と主張しているのではありません。

 ②で主張していることは、現実に日本列島で発生している地震の地震動に照らして見れば、本来耐震性が最も高くなければならない原発の耐震基準はあまりに低レベルであり危険であるという主張です。

 今回の仮処分事件全体を通じて、債務者・四国電力ですら、「債権者は伊方原発を650ガル以上の地震が襲う、と主張している。」などとはいいませんでした。
 四国電力の②に対する反論は、現実に日本列島で発生している地震動と伊方原発の基準地震動を直接比較するのは、軟らかい地表面の地震動と固い解放基盤表面(事実上固い岩盤のこと)の地震動を直接比較している、これは誤った比較だ、というものでした。

 それを吉岡決定は、「債権者は、伊方原発には超過地震発生の危険がある、と主張している。」というのです。
 債権者が提出した申立書やその後に提出した準備書面全てのどこをみてもそのような主張はしていません。大体、債権者は、「地震の予知予測は不可能だ。」と主張しているのですから。
 「伊方原発を650ガル以上の地震動が襲う」などと、神様ではあるまいし、そんな予測が立てられるわけがありません。

「吉岡決定」の強引な解釈

 なぜこのように債権者の主張がねじ曲がるのか?まるで不可解な記述です。しかし決定文本文にはその理由が書かれていました。引用します。
「本件において債権者らが主張する『生命、身体等が侵害される具体的危険』は、債務者が策定した基準地震動Ssを少なくとも上回る地震動を本件発電所の解放基盤表面にもたらす規模の地震が発生する具体的危険を不可欠の前提としているものと解すべきである。」
(決定文66頁。「当裁判所の判断」の「1 争点1について」の(1)のイ)
 吉岡決定の論理は、債権者の主張①「地震予知予測は不可能。よって規制基準は不合理」や主張②「650ガルは現実に発生している地震動に照らすとあまりに低水準」の主張は、「伊方原発敷地を650ガル以上の地震動が襲うことが不可欠の前提になっている。」、つまり債権者らは「伊方原発敷地を650ガル以上の地震動が襲う」、と主張している、という構造になっています。

 だが、ちょっと待ってください。①や②の主張から、「債権者は650ガル以上の地震動(超過地震による地震動)が伊方原発を襲うことを不可欠の前提としている。」という結論がなぜ導かれるのか?頭がクラクラするような話で、その論理が不明です。

 裁判官が訴えから、ある思惑を類推することは全く自由ですが、少なくともその類推には筋の通った論理が必要です。これは最低限のルールです。吉岡決定の類推は全く筋が通りません。全く筋の通らない類推のことを世間一般では「邪推」といいます。「邪推」をもって相手を論難することを「いいがかり」といいます。吉岡決定のこの部分、「債権者は650ガル以上の地震動が襲うことを不可欠の前提としている」という部分は、「いいがかり」に近いでしょう。

 それでは、なぜ吉岡決定は「いいがかり」をつけてまで、債権者の主張を否定しなければならなかったのか? 
 それは、650ガルという地震動が、現実に日本で発生している1000ガル、2000ガルといった地震動に比較して、あまりにも低すぎるという事実を否定しきれなかった、と「解され」ます。

それができるなら苦労はしない

 もっとも吉岡決定は、別ないい方でも債権者の主張を否定しています。それは要旨で、次のように述べている箇所です。すこし長くなりますが、引用します。
「ある地点で観測される地震動は、地震ごとに異なる震源特性、地震波の伝播経路ごとに異なる伝播特性及び観測点近傍の地盤構造ごとに異なる増幅特性の組み合わせによって構成される。」
 まことにその通りで、まるで地震学の教科書にでも出てきそうな記述です。
 ある地点の地震動は、発生した地震の震源特性(断層の規模や形状、断層の不均一さ、断層の破壊過程などある地震を決定づける諸々の要素)、伝播特性(震源からの距離、地震波の種類や周期、経路など地震波が伝わる諸々の要素)、地盤特性(地盤の形状、硬軟など地震波の増幅特性を決定づける諸々の要素)の3つが、ある地点の地震動(地震による揺れ)を決定づけます。
 まさしく吉岡決定のいう通りです。だから地震学者たちは、ひとつの大地震が起き被害が発生すると、その震源特性や伝播特性、あるいは被害地の地盤特性などを必死で調べ明らかにし、今後の地震対応に役立てようとします。

 今首都直下型地震の発生が懸念されていますが、防災・減災の観点から多くの学者・研究者が首都圏の地盤特性を明らかにしようとする調査・研究が続いています。しかしどれ一つをとってみても、地中深くで発生する現象であり、明らかにするのは容易なことではありません。

首都直下型地震
強震動予測は震源モデルの仮定・構築から始まる。上記画像は強震動予測の手法を使って、深部地下構造モデルや浅部地盤モデルの構築を行い、首都直下型地震の防災・減災に役立てようとする研究の一端。
【資料出典】webサイト東京大学地震研究所の 「震源断層モデル等の構築」より(画像クリックで当該webページが開きます)

 吉岡決定要旨の引用を続けます。
「したがって、地震ごと、観測点ごとにこれら諸特性の違いを分析し、伊方原発の地盤構造等に合わせた補正をすることなく、単に、(1)観測された最大加速度の絶対値を伊方原発の基準地震動の数値と比較したり、(2)伊方原発以外の原発での超過事例を指摘するだけでは、超過地震発生の危険があるとはいえない。」

 ここらへんから話は大きくねじ曲がって行きます。

 吉岡決定は前述のように、「債権者は伊方原発を650ガル以上の地震動が襲うから危険だと主張している。(超過地震発生の危険)」という「いいがかり」を決定の中心においていますが、今はそこが問題なのではありません。
 問題なのは、上記「地震ごと、観測点ごとにこれら諸特性の違いを分析し、伊方原発の地盤構造等に合わせた補正をすることなく」の部分です。

 吉岡決定のいうところは、「実際の観測記録と伊方原発基準地震動650ガルを比較するのなら、観測された地震の震源特性と観測された地点の地盤特性、そして震源から観測点までの伝播特性を調べて、そのデータと、伊方原発の地盤特性、想定する地震の震源特性(例えば南海トラフ巨大地震の震源特性)、そしてその地震の震源から伊方原発までの伝播特性を比較して、条件が同じになるように補正をかけて比較しなければならない、ということでしょう。

 それができるなら専門の地震学者はとっくにやっています。

「吉岡決定」の一知半解

 もしかすると吉岡決定は、すでに発生した地震の震源特性やある観測点の地盤特性、そしてその間の伝播特性は全て科学的に判明していると思い込んでいるのではないかと疑われます。
 また想定する地震の震源特性も既に判明していると思い込んでいるのではないでしょうか?
 例えば、南海トラフ巨大地震の震源特性もわかっているし、伊方原発敷地の地盤特性も全てわかっていると思い込んでいるのではないでしょうか?

 もしそう思いこんでないとすると、まだ専門の地震学者にもわかっていないことを、全く門外漢の債権者に実施しろと要求している、つまり不可能事を債権者に要求していることになり、裁判所の判断としては「規範違反」の誤りを犯していることになります。

 ですからやはり吉岡決定は、すでに発生した地震と、ある観測点の間の関係、すなわち震源特性、伝播特性、地盤特性はすべて判明していると思い込んでいるとしか解釈できません。
 ところが、実際に発生した地震の震源特性ひとつとって見ても、実は何一つといっていいほどわかっていないのです。

 例えば、2011年の東北地方太平洋沖地震について、マグニチュード9という点は異論がないところですが、その他の震源特性の諸点については、専門の地震学者の間で大激論の真っ最中です。
 つまり「これが震源特性だ」といえるほどわかってはいないのです。
 こんなことは債務者の四国電力だって主張しませんでした。

 吉岡決定は、間違いなく四国電力の提出した準備書面や反論書面を見ながら書かれたものに違いありませんが、そこはシロウトの悲しさ、恐らくは既発生地震については全てわかっていると思い込んで、この部分を書いたのでしょう。一知半解というべきです。
 ここは専門の地震学者にもできないことを債権者に要求している箇所ですが、種明かしをすると「吉岡決定」の一知半解がなせる無理難題なのでした。



「規制委審査合格」は「安全」を担保するのか



 話の順序として、次に吉岡決定の、原子力規制委員会の新規制基準なり、その審査に対する盲信について触れておかねばなりません。
 この盲信は、「原子力規制委員会の審査に合格した原発は一応安全だ」という思い込みとなって、決定文全体のトーンを支配しているからです。要旨から引用します。
「そのような司法審査の在り方(引用者注:規制委の総合的判断を裁判所として審理し直すこと)は、福島第一原発事故の反省と教訓を踏まえた一連の法改正により、発電用原子炉施設の安全性に関する基準(新規制基準)の策定及び安全性の審査の権限が原子力規制委員会に委ねられた趣旨に反し相当でない。」
 ここに示された吉岡決定の認識は、(1)新規制基準は原発の安全性に関する基準である、(2)規制委審査は当該原発の安全性について審査している、(3)だから審査に合格した原発は一応安全だろう、とする完全な思い込みによる誤解です。

「審査合格で安全とは申しません」(規制委田中委員長=当時)

 実際はそうではないのです。
 このことは原子力規制委員会自身が現在の新規制基準策定時に世の中に向かって宣言しましたし、四国電力をはじめ原子力事業者も認識しているはずです。

 債権者も、最近の原発裁判の判例に、「原子力安全神話時代」そのままの司法の認識が散見されるので、2020年3月申立時の申立書にも注意を喚起していたところです。
 少々長くなりますが申立書から引用します。
 申立書92から93頁「第9 1新規制基準合格の原発は安全とはいえない」からの抜粋です。
「我が国の新規制基準の下で審査されている原発は、基準に適合しているかどうかが審査されているのであり、安全かどうかが審査されているのではない。従って審査に合格しているからといって『安全だとは私は申し上げません』と規制委元委員長・田中俊一氏が再三再四言明している通りである。」
(甲48号証 2014年7月16日記者会見速記録4頁)
(ここをクリックすると当該資料「2014年7月16日原子力規制委員会記者会見録」PDFが開きます)

田中
【画像引用】原子力規制委員会定例記者会見(2013年4月3日)
の田中俊一委員長(当時)の様子

 申立書の引用を続けます。
「原発訴訟や仮処分申立の判決や決定の中には『規制基準に適合し、かつその審査に不合理な点がなければ、その原発は安全性に欠けることがないと推認される』式の判示が見られるが、これは事実誤認である。福島原発事故前の『原発安全神話』時代なら、この判示には一定の合理性があった。当時の安全基準とその審査は『原発の安全』を保証していたからである。」
「現行新規制基準に適合しかつ審査に不合理な点がなくても、その原発が安全性に欠けることはない、とはいえないのである。(下画像参照。赤字及び赤線は引用者)
田中
(画像クリックで原子力規制委員会平成25年4月3日第1回会合議事録PDFが開きます。※現在国立国会図書館に所蔵されています)

 上記は、2013年7月の新規制基準施行を前にしての4月、規制委会合議事録抜粋です。
 新規制基準では、それまでの「原発安全神話」と訣別し、原発は重大事故を起こすものと前提した基準が策定されました。そうするとそれまでの「安全基準」、「安全審査」という日本語の用語が問題となってきます。そうした問題を受けた会合がこの日のテーマでした。 「安全基準」、「安全審査」というと、何か審査合格の原発は安全であるかのような誤解を世間に与える、そこで「新規制基準」、「規制基準適合性審査」と名称を変えようと決定したのがこの日の結論です。
 特に大島委員(=当時)の発言にもあるようにこれらの基準は最低限の基準ですから、これをクリアすれば「安全」といえるような基準ではありません。
 また審査も「原発の安全性を審査するのではなく、基準に適合しているかどうかを審査する。ですから、審査に合格しても安全であるとは申しあげられません。」(田中俊一委員長=当時)というわけです。

 この田中委員長の発言を「原発に絶対的安全を求めるのは無理だ、の意味である。」という解釈も一部にはあるようです。
 しかし大島発言にもあるように、新規制基準自体が、絶対的安全を目指した基準どころか、「ミニマムの基準」なのですから、田中発言は文字通り、絶対的安全どころか、普通の意味での安全も確保できない、という意味にしか解釈できません。
 別ないい方でいえば、福島原発事故のような事故も起こりうる、ということを田中委員長自身が認めたもの、という解釈しかできません。

 吉岡決定の理解をもう一度振り返ってみてみましょう。
「発電用原子炉施設の安全性に関する基準(新規制基準)の策定及び安全性の審査の権限が原子力規制委員会に委ねられた趣旨に反し相当でない。」
 「新規制基準は原発の安全性を目指した基準である。」といえば、これは一般論として決して間違いとはいえません。
 しかし吉岡決定のように、「発電用原子炉の安全性に関する基準=新規制基準」と理解するのは、上記規制委員会の趣旨に反します。
 これでは「新規制基準=安全基準」ということになります。
 新規制基準は大島委員の発言にあるように「原発に求められる最低基準」なのであり、従って田中委員長がいうように「基準をクリアしたからといって決して安全ではない」とするのが正しい理解です。

 吉岡決定のいう「原発の安全性に関する基準」は日本では存在しないのです。

 また吉岡決定が理解するように「規制委に安全性に関する審査権限が委ねられた」とするのは完全な誤解で、事実は、田中委員長のいうように「規制委審査は基準に適合しているかどうかを審査しているのであり、安全性を審査しているのではない」のであって、吉岡決定の理解は事実に反し、「相当」ではありません。

原発再稼働に規制委は関与しない

 規制基準は「安全基準」ではないし、適合性審査も「安全審査」ではない、従って審査合格の原発も安全とはいえない、という点については、四国電力も異論はないはずです。
 債権者申立書の引用を続けます。
「我が国の制度では、原発に求められる最低限の安全性を決定する裁量審査権を有する国の機関乃至組織は存在しない。国民が判断する他はない。原発再稼働の是非は、田中元委員長が「最終的には国民の判断。規制委は関与しない。」と述べている通りである。
(甲号証 2014年2月19日記者会見速記録)
国民が原発再稼働の是非を判断し法的に確定する仕組みもまた存在しない現状では、債権者らはその判断を裁判所に求める他はない。」
 その肝心の裁判所が、肝心の「新規制基準」や「規制基準適合性審査」の意義を理解せず、「吉岡決定」のように全く誤った事実認識の下に決定を下す、とあっては、債権者はなにをかいわんや、です。
 事実(「新規制基準は安全基準ではないし、適合性審査は安全審査ではない」)に向き合わない裁判所なら、この日本には百害あって一利なしで、まったく裁判所も裁判官も不必要です。
 吉岡決定においては、この誤解が決定文全体を支配し、四国電力の言い分を無批判に採用する結果となっています。

田中
(画像クリックで原子力規制委員会平成26年2月19日記者会見速記録PDFが開きます。※現在国立国会図書館に所蔵されています)

裁判所に求められる最低限の仕事

 原発裁判において、最終的に裁判所に求められる判断は、当該原発の運転を認めるかどうかです。  その判断にあたって、原子力規制委員会の策定した新規制基準は、原発の何に関する基準なのか、またその審査は何に関する基準なのかに関して正しい理解をしておくことは最低限の仕事といって過言ではありません。
 それを「吉岡決定」のように、規制基準や適合性審査に関して誤解したままでは、正しい判断ができるはずがありません。
 「規制基準」や「適合性審査」に関して、マスコミや世評に惑わされることなく、正しい理解をしておくことは、裁判所にとって最低限の仕事といえましょう。



伊方最高裁判決の枠組みをなぜ放棄したか



 次に1992年(平成4年)伊方最高裁判決の司法判断の枠組みを全く放棄した点をみてみましょう。要旨から引用します。
「また、伊方原発訴訟最高裁判決(最判平成4年10月29日)が示した司法審査の枠組みを原発運転差止仮処分に当てはめることも相当ではない。なぜなら、新規制基準を策定した主体ではないし伊方原発の安全性について審査した主体でもない四国電力に、原子力規制委員会がした許可(行政処分)に不合理な点がないとの主張、疎明をさせるのは相当ではないからである。上記最高裁判決における判断枠組みは、国及び原子力規制委員会を被告とする伊方原発をめぐる設置変更許可処分の取消しを求める行政訴訟において採用されるべきである。」
 論旨が必ずしも明瞭ではないのですが、平成4年伊方最高裁判決(以下「伊方最判」と記述します)の判断枠組みを採用しない理由を述べた箇所です。その理由は、

①規制基準を決めたのも、審査をしたのも四国電力ではないのだから、四国電力に主張・疎明させるのは筋違い。
②伊方最判は、国を被告とする行政裁判であり、今回のような民事裁判(債務者=被告は四国電力)ではない。行政裁判の判断枠組みは民事裁判では使うべきではない。

 ということのようです。

 ①も②もまるで木で鼻を括ったような形式論理です。
 特に①については、四国電力が規制当局ではないことは自明の理ですから、自明の理を理由にするのは典型的な同義反復です。
 また②についても、被告(債務者)が異なるので「判断枠組み」は使えないとしていますが、被告によって異なる判断枠組みを採用しなければならない理由については一切説明していません。
 (後でも触れますが優れた判断枠組みなら、行政・民事の別なく採用すべきです。)

 ここでは順序として「伊方最判」とはいったいどんな事件で、どんな判決だったのかを簡単に見ておきましょう。

伊方最高裁判決とは

 四国電力が伊方原発原子炉(現在の1号炉)の設置許可を内閣総理大臣に申請、それが許可されたのが1972年11月。以降伊方原発建設が始まりました。
 1972年といえば、佐藤栄作長期政権が終わり、7月には田中角栄内閣が成立しています。ですから伊方原発に原子炉設置許可を出したのは田中角栄ということになります。
 当時は「原発安全神話」まっさかりの頃で、マスコミ挙げて「原発推進」の時代でした。(その後、原子炉設置許可を出すのは通産大臣となり、現在は原子力規制委員会と変遷します。)

 伊方原発建設に危機感を抱いた伊方町及び周辺の住民33名は、原子炉設置許可の取り消しを求めて、内閣総理大臣を被告(その後通産大臣が被告)に松山地裁に提訴します。
 当時は「原発反対」というだけで反体制の変わり者とみられていた時代風潮ですから、よほどの確信と決意がなければできる行為ではありません。
 一審松山地裁が訴え却下の判決を出すのが78年4月。住民側は直ちに高松高裁に控訴します。
(この間いろいろ重要な出来事がありますが、割愛します。)
 控訴した住民は32名。のち6名が控訴取り下げをしています。徒手空拳の住民側の苦しい、厳しい闘いであったことが窺われます。
 高松高裁も1984年12月、控訴棄却の判決を出します。住民のうち16名がただちに最高裁へ上告(上告年は85年)。

 こうして「伊方最高裁」の闘いが始まりました。

 この間、77年には伊方原発が運転開始、79年にはアメリカでスリーマイル島原発事故が発生しています。
 また上告の翌年86年には旧ソ連でチェルノブイリ原発事故が発生しています。このことも伊方最判に微妙な影響を与えます。

スリーマイル
1979年3月28日、アメリカ合衆国東北部ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所2号機で発生した重大な原子力事故。国際原子力事象評価尺度 (INES) においてレベル5の事例。2019年9月には1号機も閉鎖され、廃炉工程にはいった。
【引用出典】日本語wikipedia「スリーマイル島原子力発電所事故」
および英語wikipedia「Three_Mile_Island_accident」(画像クリックで当該webページが開きます)

「伊方最判」司法判断の枠組み

伊方最判の主要な争点は4つあったのですが、ここでは直接関係する争点「司法判断の枠組み」だけを取り上げます。要点は次の通りです。債権者申立書から引用します。
「原子炉施設の安全性に関する判断の適否が争われる原子炉設置許可処分の取消訴訟における裁判所の審理、判断は、原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の専門技術的な調査審議及び判断を基にしてされた被告行政庁の判断に不合理な点があるか否かという観点から行われるべきであって、現在の科学技術水準に照らし、右調査審議に用いられた具体的審査基準に不合理な点があり、あるいは当該原子炉施設が右の具体的審査基準に適合するとした原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の調査審議及び判断の過程に看過しがたい過誤、欠落があり、被告行政庁の判断がこれに依拠してされたと認められる場合には、被告行政庁の右判断に不合理な点があるものとして、右判断に基づく原子炉設置許可処分は違法と解すべきである。」
 表現は小難しいのですが、中身は結構単純です。
「安全基準」なり「安全審査」は、原発に「万が一にも重大事故」をおこさせないために存在する、従ってもし安全基準に不合理な点があったり、安全審査に「看過し難い過誤・欠落」があった場合には、国の判断に不合理な点があるのだから、「設置許可」は違法で取り消すべきである、という内容です。
 伊方最判は1992年(平成4年)10月、最高裁第一小法廷において下されるのですが、結果は「安全基準に不合理な点はなく、またその審査においても過誤・欠落はない、よって国の判断に不合理な点はなく、原子炉設置許可は取り消す必要はない、として却下決定(原告敗訴)の判決になりました。

吉岡決定には都合の悪い枠組み

 しかしここで示された判断枠組み、すなわち「安全基準」(現在の原子力規制行政下では「規制基準」)や「安全審査」(同「規制基準適合性審査」)に不合理な点があったり、看過しがたい過誤・欠落があったりすれば、それは国の判断(現在では原子力規制委員会の判断)が誤りとなる、とする判断枠組みは、行政裁判、民事裁判にかかわらず、多くの原発裁判で採用される判断枠組みとなりました。
 原発の具体的危険を立証することはほとんど不可能に近い難事です。しかし重大事故が発生すれば、国民生活に対する影響は計りしれません。
 この難しい問題を、伊方最判は「規制当局の審査基準に不合理な点があったり、あるいは審査そのものに過誤・欠落があったりすれば、具体的危険が推認できる。」という考え方を持ち込むことによって解決しようとしました。
 まさに司法の知恵でしょう。
 だからこそ、その後多くの原発裁判で伊方最判の判断枠組みが採用されてきたのです。

 話は横道に逸れるようですが、私たちの先人、伊方原発第一次訴訟の原告のみなさんの筆舌に尽くしがたい辛苦があったればこそ、この「伊方最判」の判断枠組みが歴史に残りました。
 そして後に続く私たちはその恩恵を今受けています。
 主張の仕方によっては、原発裁判に勝利し、原発の運転を差し止める道が拓かれたのです。
 先人たちは大きな財産を私たちに残してくれた、このことを私たちは脳裏に刻みつけておかねばなりません。

 従って、この判断枠組みは、吉岡決定にとっては、はなはだ都合の悪い枠組みです。というのはこの枠組みに従うと、裁判所として、どうしても規制委の基準なり、その審査のありかたに関して判断せざるをえなくなります。
 そうすると、「地震に関する最新の科学的知見は、地震は予知予測できない。地震の規模も予測できないのに、ましてやその地震による最大地震動(基準地震動)など精確に予測できる筈がない。地震動を精確に予測できることを前提にして、原発の耐震基準を決定する規制委の手法は、最新の地震学の科学的知見に照らして不合理である。」という債権者の主張に判断を下さざるをえなくなります。

 はて、裁判所として、国の中央防災会議も認めるこの最新の知見を否定できるでしょうか?
 それは不可能でしょう。

 ですから、伊方最高裁判決の判断枠組みを放棄せざるを得なかった、ということだと思います。

 もう一度、吉岡決定が主張する、伊方最判の判断枠組みを放棄する理由を振り返って見ましょう。
 それは「今回仮処分は民事裁判であって、伊方最判は行政裁判である。行政裁判の判断枠組みは民事裁判に適用できない。」でした。
 専門の法律家からみても、この形式的な区別だけが理由なら、「新説」というより「珍説」でしょう。
 判断枠組みとして合理性と説得力があれば、行政裁判・民事裁判の別なく採用できる筈ですし、実際多くの裁判官が、住民を勝たせるにしろ負けさせるにしろ、原発民事裁判で「伊方最判」の判断枠組みを採用しています。
 「行政裁判の判断枠組みは民事裁判では使えない。」は実は全く理由になりえません。

 債権者の主張に対して、判断を下さないために、伊方最判の枠組みを放棄した、その理由を行政・民事の区別にこじつけた、というのが真相でしょう。
 この点も、「吉岡決定」を「戦後最悪の司法判断の一つ」とする理由になっています。

伊方最判の立証責任論

 伊方最判は、今日多くの判例で採用されている「立証責任論」を展開しています。
 伊方最判で、住民側は敗訴しましたが、今日私たちが有利となる極めて重要な立証責任論を引き出していたのです。
 裁判所のWebサイト「最高裁判所判例集」の「事件番号: 昭和60(行ツ)133」から引用します。
「原子炉施設の安全性に関する被告行政庁の判断の適否が争われる原子炉設置許可処分の取消訴訟においては、右判断に不合理な点があることの主張、立証責任は、本来、原告が負うべきものであるが、被告行政庁の側において、まず、原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の調査審議において用いられた具体的審査基準並びに調査審議及び判断の過程等、被告行政庁の判断に不合理な点のないことを相当の根拠、資料に基づき主張、立証する必要があり、被告行政庁が右主張、立証を尽くさない場合には、被告行政庁がした右判断に不合理な点があることが事実上推認される。」
 これは、原告、被告のどちら側に立証責任があるのか、という話です。
 今回広島新規仮処分のケースでいえば、債権者、債務者のどちらの側に立証責任があるのか、という当てはめができます。

 一見、この議論自体おかしな議論と見えます。
 事件では常に訴えた側に立証責任があります。たとえば、殺人事件の裁判で、被告が殺人を犯したと立証するのは、起訴する検察の側(原告)の筈です。検察が起訴しておいて、被告に「無罪であることを証明しろ。」などとやられてはたまったものではありません。

 しかし原発裁判においては、専門的な知見や情報を持つのは圧倒的に国なり原子力事業者です。
 訴えるのは住民の側ですから、ほとんど何の知識も情報もありません。
 だから、訴えで、事実に基づいて合理的な疑いを提出しているなら、今度は基準に不合理な点のないことや審査に瑕疵・欠落(見落としや手抜きなど。要するに杜撰な審査)がないことを主張・立証するのは、専門家である国や原子力事業者である、という「立証責任論」を伊方最判は提示したのです。
 それが、上記引用文の「立証責任は、本来、原告が負うべきものであるが、被告行政庁の側において、まず、原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の調査審議において用いられた具体的審査基準並びに調査審議及び判断の過程等、被告行政庁の判断に不合理な点のないことを相当の根拠、資料に基づき主張、立証する必要があり」とする部分です。
 いろいろな呼び名がありますが、ここでは一般的に用いられている「立証責任転換論」(立証責任が原告から被告の側に転換されること)と呼んでおきましょう。原発裁判がより衡平になったということでもあります。
 そして、もし被告側が、この主張・立証に失敗したなら(納得のいく説明ができなかったら)、被告側の判断が不合理であること(誤りであること)が「事実上推認される」と伊方最判は判示します。

 今回仮処分事件に当てはめれば、債権者(原告)は、「地震の精確な予知予測はできない、というのが政府・地震学者が一致する最新の科学的知見だ。ところが規制委の基準は、地震動の精確な予測は計算によって可能だとし、現実に原発の耐震基準を決めている。この規制基準は不合理である。」と主張しています。これに対して、「いや不合理ではない。」と立証するのは債務者(被告)の四国電力ということになります。
 ところが、吉岡決定は前述のように、四国電力が規制基準を決定したわけでも、審査したわけでもない、という理由で立証責任を免除してやっています。

 吉岡決定としては、なにがなんでも伊方最判の判断枠組みやその「立証責任転換論」を採用するわけにはいかなかったのです。

伊方原発建設時
伊方原発3号機建設時の基礎掘削工事の写真 【画像引用】四国電力伊方原発PR施設「きらら館」展示写真より


永年の努力で打ち立てられた立証責任転換論



 伊方最判で示された「立証責任転換論」の考え方は、1992年になってはじめてうちだされたのではありません。
 裁判所がこの考え方に到達するには、実に長い「人格権」や「生存権」を守る多くの人びとの営々たる努力と闘い、そして犠牲の積み上げがありました。

 ある大きな力をもった存在が、その利益活動を行う過程で、極小さな力しかもたない存在の命や健康といった人の生存にかかわる基本的利益を侵害したとします。
 そして小さな力しかもたない個人が、大きな力を持つ相手、たとえば大企業を相手に裁判に訴えるとしましょう。
 そして自分の利益が侵害されたと主張したとしましょう。

 この場合100%個人に立証責任が負わせられれば、まず訴えた個人(原告)に勝ち目はありません。
 第一に裁判自体に大きな費用がかかりますし、立証するには膨大かつ緻密な科学技術上の、あるいは医科学的主張を行わなければなりません。
 成功するかどうかわかりません。
 はっきりしていることは、これにも途方もない費用がかかるということだけです。
 また利益侵害の原因となる要素について多くの情報を持っているのは、訴えられた大企業(被告)であるケースが通常です。
 はじめから勝負になりません。

 強いものには弱いものはただ唯々諾々として従う、被害・損害はただ黙々として受忍する、こうした状態は、一人一人の「個」に最高の価値を置く日本国憲法が到底容認するところではありません。

 憲法の枠内で、原告・被告間の力の衡平を計ることが裁判の審理の過程で試みられることになりました。
 それが「立証責任転換論」です。典型的には「四大公害裁判」でしょう。

四大公害裁判とは

 四大公害裁判とは、「イタイイタイ病訴訟」、「新潟水俣病訴訟」、「四日市公害訴訟」(「四日市ぜんそく訴訟」)、「水俣病訴訟」の4つの裁判を指します。
 提訴順に簡単にその概要をみておきましょう。

① 新潟水俣病訴訟 1967年6月提訴 原告76名
新潟県阿賀野川流域の住民が67年6月(第一次訴訟)に、昭和電工を被告として、同社の鹿瀬工場からの廃液に含まれているメチル水銀化合物により汚染された魚類を摂取したため、新潟水俣病に罹患し、重大な被害を被ったことに対する損害賠償を請求したものである。
裁判の審理の過程においては、新潟水俣病と昭和電工鹿瀬工場の廃液との因果関係および昭和電工の故意または過失責任が主たる争点となった。
企業の生産活動も一般住民の生活環境保全との調和においてのみ許されるべきであり、最高の技術設備をもってしてもなお人の生命身体に危害が及ぶおそれがあるような場合には、企業の操業短縮はもちろん、操業停止まで要請されることもあると解する、と判示。人の生命身体の安全確保に対する企業の注意義務違反が指摘された。一審原告勝訴。確定。

水俣病
新潟水俣病「公害健康被害の補償等に関する法律」に基づく認定患者は715人(申請件数2,666件)、その他健康被害を受け水俣病被害者として給付対象となっている人が2,980人(2019年12月31日現在)
https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/seikatueisei/ 1195661749709.html
【画像引用】公益財団法人ニッポンドットコム「MINAMATA: W. ユージン・スミスへのオマージュ」より引用
https://www.nippon.com/ja/images/i00051/(画像クリックで当該webページが開きます)


② 四日市公害訴訟 1967年9月提訴 原告12名
三重県四日市市磯津地区の住民が、四日市コンビナートを形成している6社を被告として、これらの6社の排煙により発病し重大な被害を被ったことに対する損害賠償を請求したものである。
6社とは、昭和四日市石油、三菱油化、三菱モンサント化成、三菱化成工業、中部電力、石原産業である。 審理の過程において、主たる争点となったのは、共同不法行為の成立、故意または過失責任、因果関係等であり、1972年7月に判決、一審原告勝訴。確定。
被告は、その操業を継続するに当たっては、ばい煙によって住民の生命、身体が侵害されることのないように操業すべき注意義務があるにもかかわらず、慢然と操業を継続した過失も認められるとされた。
被告が、そのなしうる最善の大気汚染防止措置を講じて、結果回避義務を尽した以上被告に責任はないと主張したことに対しては、少なくとも人間の生命、身体に危険のあることを知りうる汚染物質の排出については、企業は経済性を度外視して、世界最高の技術、知識を動員して防止措置を講ずべきであり、そのような措置を怠れば過失は免れないと解すべきであるとされた。
最後に、因果関係については、各種の疫学調査によると、磯津地区の閉塞性呼吸器疾患とばい煙は明確な因果関係があり、大気汚染以外の因子は、いずれも大気汚染の影響を否定するに足るほどのものでないとされ、これまでの判決と同様の姿勢が示された。

四日市ぜんそく
四日市石油化学コンビナートの当時の煤煙排出状況
【画像引用】四日市公害と環境未来館webサイトより
https://www.city.yokkaichi.mie.jp/yokkaichikougai-kankyoumiraikan/about-yokkaichi-pollution/summary/(画像クリックで当該webページが開きます)


③ イタイイタイ病訴訟 1968年3月提訴 原告33名
富山県神通川流域の住民が、三井金属鉱業に対して提起した損害賠償請求訴訟(第1次訴訟)である。
この訴訟において主たる争点となったのは、三井金属鉱業神岡鉱業所から排出された廃水等に含まれていたカドミウムによりイタイイタイ病が発生したかどうかの因果関係の立証である。
1971年6月の判決は、被告が主張するカドミウムの人体に対する作用を数量的な厳密さをもって確定することや経口的に摂取されたカドミウムが人間の骨中に蓄積されるものかどうかの問題はいずれもカドミウムと本病との間の因果関係の存否の判断に必要でないとされ、法律的な意味で因果関係を明らかにすることと、自然科学的な観点から病理的メカニズムを解明するために因果関係を調査研究することとの相違が明確にされた。
このことは、公害裁判における原告側の因果関係の挙証責任を事実上緩和することを意味するものである。第1審の判決に対しては、即日三井金属から控訴が申し立てられ、事件は名古屋高等裁判所金沢支部に係属したが、1972年8月の控訴審判決においても、住民側の主張が認められ、確定した。

イタイイタイ病
富山地裁の勝訴判決を知らされた患者(1971年6月)
【画像引用】毎日新聞写真特集「イタイイタイ病の教訓を世界へ」
https://mainichi.jp/graphs/20160517/hpj/00m/040/003000g/3(画像クリックで当該webページが開きます)


④ 水俣病訴訟 1969年6月提訴 原告138名
熊本県水俣地区とその周辺の住民がチッソに対して行なった損害賠償請求訴訟である。日本の公害のいわば原点であり、象徴ともいうべきであるのが水俣病である。
最大の争点となった被告の責任については、73年3月の判決は、被告の注意義務違反を指摘し、過失責任があったことを認めた。すなわち、化学工場は、その廃液中に予想外の危険な副反応生成物が混入する可能性が大きいため、とくに、地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止する高度の注意義務があるにもかかわらず、被告側の対策、措置にはなに一つとして納得のいくようなものはなく、被害の過失の責任は免れえないと述べた。一審原告勝訴。確定。

熊本水俣病
いまも人々の闘いが続いている。
【画像引用】クロスくまもとのwebサイトから熊本日日新聞の記事
https://crosskumamoto.jp/article/5175/(画像クリックで当該webページが開きます)


 まことに簡単に四大公害裁判のあらましを見たのですが、いずれも力の弱い一般市民と、強力な組織力と豊かな資金・人員、圧倒的な情報量をもつ大企業との戦いであり、通常の民事裁判のように原告(申立人)に100%立証責任を負わせては、原告(申立人)に最初から勝ち目はありません。
 しかし被害事実は厳然としてそこに存在するのであり、日本の裁判所は、その被害事実に正面から向き合いながら、原告・被告間の衡平を計ろうとしました。それが「立証責任の緩和」であり、時には「立証責任転換論」でした。

 わかりやすくいうと「原告は、実際に被害を受けていて、合理的な疑いを提出している。今度は被害と原因要素(たとえばタレ流された水銀やカドミウム、工場から排出される煤煙など)との間に因果関係がないことを疎明するのは被告側の責任だ。」ということです。これが「立証責任転換論」の骨格です。

 四大公害裁判の成果は、多くの人たち(原告や原告でない被害者はもちろん、手弁当で支援した弁護団・支援者、なんとか裁判の衡平を保とうとした司法関係者など)の永年の努力の積み上げの結果です。
 その中心をなしたのが、「立証責任緩和論」であり、さらに一歩進んで「立証責任転換論」でした。

 「立証責任転換論」は同種の訴訟では、一般的に用いられるようになりました。
 近年では産業廃棄物処分場建設差止仮処分事件にも用いられるようになり、たとえば広島地裁は20年3月に、「住民は合理的な疑いを提出したのに、産廃業者の安全性に関する疎明が不十分である。」として、広島県三原市本郷に建設中の産業廃棄物処分場建設差止の仮処分決定を出しています。
 なお、付言すれば、この4つの裁判で、同種の公害問題がすべて解決したわけではありません。
 それどころかその後も繰り返し、繰り返し同種の訴えが裁判所に提起され、いまもなお、人びとの闘いが続いています。

原発裁判における「立証責任転換論」

 伊方最判の「立証責任転換論」も、こうした「原発裁判」に先行する「公害裁判」の成果を取り入れたものです。以後原発裁判においても「立証責任転換論」が徐々に主流になっていきます。

立証責任転換論採用裁判

 といっても原発裁判の「立証責任転換論」にも2種類あることに注意を向ける必要があります。

 たとえば仙台地裁の1996年1月判決(女川原発訴訟)の立証責任転換論は、「人格権侵害の具体的危険がないことの立証責任を一次的に被告に負わせる」(立証責任転換論)としながら、被告が立証すべき事項を、規制当局(当時は原子力安全委員会)の審査に合格し原子炉設置許可を得ていることでその責任が果たされるとしました。

 これと同種の判決が、「当該原子炉施設が原子炉等規制法及び関連法令の規制に従って設置運転されていること」(静岡地裁2007年10月 浜岡原発訴訟)、「本件原子炉施設が本件安全審査における審査指針等の定める安全上の基準を満たしていること」(名古屋高裁金沢支部2009年3月判決。志賀2号機訴訟控訴審)などで出されています。
 被告がこれを立証すれば、今度は、原告側が人格権侵害の具体的危険があることを立証すべきであるとして、一旦被告に転換した立証責任を、再び原告に再転換しています。

 これら判決は、伊方最判に従って「被告」に立証責任があると見せながら、その責任は規制当局の審査に合格していることで果たされている、それ以上は、今度は、「具体的危険」を原告側で立証しなければいけない、とするのですから、四大公害裁判や伊方最判の「立証責任転換論」の趣旨からはほど遠く、「擬似立証責任転換論」あるいは「ニセ立証責任転換論」だ、といわなければなりません。

審査合格は安全の立証にならない

 また旧原子力安全委員会時代の旧安全基準では、審査に合格することが原発の安全を保障する建前(いわゆる「原発安全神話」)ですから、「審査合格=安全」の等式が成り立っていたのですが、現在の新規制基準では「適合性審査合格=安全」の等式は成立しません。ですから「適合性審査合格は安全を担保する」との主張は、「ニセ立証責転換論」を採用しても成り立たなくなっています。(「審査合格」は安全の立証にならない。)

 本格的に「立証責任転換論」を展開したのは、福岡高裁宮崎支部2016年4月決定(川内原発仮処分即時抗告審)でした。
 同決定は住民側敗訴の決定でしたが、人格権侵害の具体的危険がないことの立証責任を最後まで九州電力に負担させ、その立証に代えて、原子力規制委員会が定めた審査基準に不合理な点がないこと、審査基準に適合したとする原子力規制委員会の判断に不合理な点がないことを立証することができるとし、原告住民側の立証活動を、反証として位置づける旨の新たな考え方を示しました。この判断枠組みは伊方最判の趣旨に適っています。

反証:裁判用語で「反証」とは、本来立証責任がない側が、証拠やあるいは「合理的な疑い」を提出し主張することを意味する。これに対して立証責任がある側は文字通り「立証」を行わなければならない。福岡高裁宮崎支部決定に即していえば、「立証」を行わなければならないのは九州電力であり、住民側の主張は「反証」である、という位置付けを行い、立証責任を九州電力に負わせることによって、立証責任の転換を図った。

 その後は、この考え方に追随する司法判断が主流となっていきます。
 例えば、広島地裁2017年3月決定(伊方3号機広島仮処分。住民敗訴)、松山地裁2017年7月決定(伊方3号機松山仮処分。住民敗訴)、広島高裁2017年12月決定(伊方3号機広島仮処分即時抗告審。住民勝訴)、広島高裁2020年1月決定(伊方3号機山口仮処分即時抗告審。住民勝訴)、大阪地裁2020年12月判決(大飯原発3・4号機。住民勝訴)、水戸地裁2021年3月判決(東海第二。住民勝訴)と続きます。 

広島勝訴
広島などの住民が申立てた伊方原発3号機運転差止仮処分、2017年12月
13日広島高裁即時抗告審、勝訴時(裁判長:野々上友之裁判官)

山口勝訴
山口の住民が申立てた伊方原発3号機運転差止仮処分、2020年1月17日
広島高裁即時抗告審、勝訴時(裁判長:森一岳裁判官)

 特に、2017年3月決定(伊方3号機広島仮処分。住民敗訴)では、裁判長は今回決定と同じ吉岡茂之裁判官です。同じ裁判長が今度は合理的・積極的理由もなしに、「伊方最判の判断枠組み」や「立証責任転換論」を放棄しているのですから、その論理構造に首を傾げたくなります。

吉岡決定「立証責任転換論」放棄の意味するところ

 吉岡裁判長の豹変ぶりについては、様々な議論のあるところですが、伊方最判の司法判断の枠組みは、その立証責任転換論とともに、公害裁判などの歴史的判定の結果を受けて、万人が納得する判断枠組みとして、多くの裁判官が受け入れるところになった、ということは最低限指摘できるところでしょう。ここまで到達するには、実に多くの人の努力と犠牲があったことも既に垣間見たところです。

 それを今回吉岡決定がなぜ放棄したのか、しかも自分自身がいったんは支持した判断枠組みをなぜ放棄したのか、これはもう推測に頼るしかありません。
 決定文には「民事訴訟であるから」の形式論理しか読み取れません。そこには裁判官としての深い思索や論理展開は全くみられません。

 表面上、見て取れることは、何がなんでも四国電力を勝たせたかった、という執念しかありません。

 吉岡決定の思惑は別として、吉岡決定は、実に長い時間をかけ、多くの犠牲を払って、公害裁判、原発裁判などで築きあげてきた先人たちの知恵と努力(強者と弱者の裁判における衡平化)を一瞬にしてぶち壊してしまった、ということはいえるでしょう。
 この点も吉岡決定が「戦後最悪の司法判断のひとつ」と位置付ける理由の大きな要素になっています。



「伊方原発が事故を起こさなければ保全は認めない」



 さていよいよ最後の論点、「保全の必要性」に入ります。債権者の訴えの根幹部分に関わる重要な論点です。

 今回、債権者は、日本国憲法上最も価値があるとされる「人格権」の「保全」を求めて裁判所に訴えています。 「人格権は日本国憲法上、最も価値の高い法的利益(法益)」です。この点についてはどんな論者であろうが、異論はありません。 従って本案訴訟(本訴)、仮処分に限らず多くの原発裁判が、同趣旨の訴えを起こしています。

(話は変わるようですが、自民党の日本国憲法改憲案を読むと、個の人格権が最も高い価値をもつ、という憲法の最高規定を変えようとしているように読めます。これを変えられてしまっては、私たちは裁判所に人格権に基づいて訴えることも不可能になってしまいます。)

 人格権がもっとも高い価値であるがゆえに、日本の法体系は、その「保全の権利」(あらかじめ人格権を守る権利)を認め、その「妨害予防」の権利も法は認め、その「妨害予防請求権」も認めています。
 ですから、今回広島新規仮処分の申立書の「仮処分により保全すべき権利」の欄にも「人格権に基づく妨害予防請求権」と書かれています。
 わかりやすくいうと、現に人格権が侵されて初めて訴えを起こすのではなく、その具体的危険性が存在すれば訴えを起こすことのできる権利があり、これが「妨害予防請求権」です。
 ですからこの場合、直接保全の対象になるのは、「人格権に基づく妨害予防請求権」です。今回仮処分事件の争点の一つは、「妨害予防請求権」を保全する必要があるかないかでした。

 これについて吉岡決定は、次のように述べています。決定文から引用します。
「債務者が本件原子炉を運転することによって、債権者らが上記本案判決の確定まで受忍することが酷であると考えられるほどの損害を被るとか(著しい損害)、そのような損害が現実化する危険が上記本案判決の確定を待てないほどに差し迫っていること(急迫の危険性)の疎明を要する筋合いである。」(決定文87頁)
 いっていることは、伊方原発3号機の運転に伴って、債権者が、現に損害を受けていること、あるいはその具体的危険が差し迫っていることが「保全の必要性」の要件である、ということです。

 原発裁判のこれまでの判例では、当該原発の原子炉設置許可ないし原子炉設置変更許可が規制当局(現在は原子力規制委員会)からなされた時点で、上記「保全の必要性」が認められてきました。 それは原発事故が、一国の存亡を決定付けるほどにその影響が大きく、多くの国民の生存権や人格権侵害の危険性を孕んでいる極めて破局的な結末をもたらす「人災」であることによります。それは2011年の福島原発事故をみてみれば一目瞭然です。
 ですからこれまで日本の司法は、原子力事業者が「原子炉設置許可」ないし「原子炉設置変更許可」を取得した時点(原子力事業者が原子炉を運転することができる法的権利を得た時点)で、「保全の必要性」を認めてきました。これはほとんど全ての判例に共通しています。

 ですから、四国電力が現在の原子力規制委員会から、伊方原発3号機の「原子炉設置変更許可」を得た時点で、債権者に「妨害予防請求権」が発生しているのです。

 それからすると、「吉岡決定」の判示は、一種異様です。
 果たして、決定文は次のように続けます。
 「すなわち、①現時点で本件原子炉の運転にともなって既に大量の放射性物質の放出が発生・継続しており、債権者らの生命や身体等の重大な法益が侵害されている具体的事実、また②少なくとも、本件原子炉の解放基盤表面において債務者が策定した基準地震動Ssを上回る地震動をもたらす地震が発生する危険性について、(中略)、その危険性が本案判決確定を待つ暇もなく差し迫っている旨の評価を基礎付ける事実、以上の2点のいずれかの疎明を要するものといわねばならない。」(同88頁)
 これを読まれている方の多くは、吉岡決定が何をいっているのか恐らく理解ができないと思います。

大量の放射性物質の放出が発生・継続している状態とは

 日本語の普通の文脈では、「既に大量の放射性物質の放出が発生・継続しており」は、その通りに読むしかありません。従って、「現に著しい損害が発生している」状態でなければ、「保全」は認められない、という意味合いとなります。

 この場合「大量の」の意義があいまいです。
 たとえば、伊方3号機からはその正常運転中、年間10テラ(兆)ベクレル以上のトリチウムをトリチウム水(HTO)や気体トリチウム(HT)の形で環境に放出しています。これを大量の放射性物質放出といえるかどうかは論者によって分かれます。
 私たちは「大量の放出」と考えますが、四国電力は「微量の放射性物質」と表現しています。
 ですから、これは「誰しも認める大量」ではないことになります。

 「誰しも認める大量」とはどれくらいになるのでしょうか?

 IAEA(国際原子力機関)とOECD(経済協力開発機構)が共同で作成した、核事故の等級付けをする「国際原子力事象評価尺度-INES(イネス)」という目安表があり、そこでは核事故を、放射性物質の放出量などで、ゼロから7までのレベルに等級分けし、ランク付けをしています。

 放射性物質の放出量といっても放射性核種は多様で比較のしようがありませんから、放出量はヨウ素131に換算して比較することにしています。
 そのINESによると、最高レベルの「7」にランクされているのは1986年のチェルノブイリ原発事故(放出量はヨウ素131換算で520万テラ(兆)・ベクレル)と2011年の福島原発事故(同77万テラ・ベクレル)の2つだけです。

INES
(画像をクリックするとPDFでご覧いただけます)

 原子力規制委員会は、福島原発事故の1/100の放出量なら許容できるとしていますので、1万テラ・ベクレル程度の放出では、「大量の」とは認めないでしょう。
 ちなみに1979年のアメリカ・スリーマイル島原発事故での放出量は数千テラ・ベクレルでした。

 INESによれば、「レベル7」の核事故とは、「深刻な事故」で放出量の目安は「数万テラ・ベクレル」以上としています。
 「数万」、たとえば3万テラ・ベクレル以上ならどんな論者でも、原子力規制委員会でも、四国電力でも「大量」と認めるでしょう。
 つまり吉岡決定で「大量の放出」とは、3万テラ・ベクレル以上の放出ということになります。

 伊方原発3号機からヨウ素131換算で3万テラ・ベクレル以上の放出、という状況は、正常運転ではありえません。
 伊方3号機が取り返しのつかない過酷事故を起こした時以外はありえません。
 まさに債権者は、それを恐れて今回広島地裁に伊方3号機の運転差止を提訴したのです。
 それを吉岡決定は「現に事故が起きないと保全は認められない」といっているのも同様です。

(福島事故被害者の方々は、この部分を読まれてどう思うでしょうか?)

 従って、吉岡決定の保全要件①は、「保全の意義が完全に失われた」全く無意味な要件ということになります。

 それとも広島地裁は、伊方3号機が重大事故を起こし、放射性物質が大量放出・継続している時、債権者らが保全を求めて訴え、広島地裁が「保全命令」を出せば、3号機からの放射性物質放出は止まる、とでも考えているのでしょうか?

 まさかそんなことはないでしょう。
 事故を起こせば、裁判所のコントロール外、裁判所がコントロールできるのは、事故を起こす前、ということは広島地裁もわかっているはずです。

福島原発事故
2011年3月15日に撮影された福島第一原発3号機。水素爆発後、さかんに白煙を上げているが、白煙中には膨大な放射性物質が含まれている。
【画像引用】東京電力webサイトより

福島第一原発敷地内
2021年に撮影された福島第一原発敷地内の汚染水タンク群
【画像引用】経済産業省エネルギー庁webサイトより
https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/ johoteikyo/fukushima2021_02.html
(画像をクリックすると当該webページが開きます)

地震の専門家でも不可能なこと

 次に②の保全要件を見てみましょう。
 「本件原子炉の解放基盤表面を基準地震動Ss以上の地震動が襲うことが差し迫っていることを立証する」ことが保全要件となる、といいます。
 伊方原発は岩盤の上に建設されていますから、そして事実上「解放基盤表面」とは「岩盤上」と同義ですから、「解放基盤表面を襲う」とは「伊方原発敷地を襲う」と読み替えることができます。
 従って要件②は「実際に伊方原発敷地を650ガル以上の地震動が襲う」といっているのだな、と読めます。

 次の難物は、「差し迫っている旨の評価を基礎付ける事実」という記述です。
 「差し迫っている」ことを立証するには、この地震の発生時期を特定しなければなりません。しかも650ガル以上の地震動が襲う時期を特定しなければなりません。これは地震発生の確度の高い予測をすることにほかなりません。
 つまり要件②は、債権者に「伊方原発を650ガル以上の地震動が襲うことを、時期を特定して精確な予測、立証しろ。」といっていることになります。

 債権者は、「地震の予知予測はできない、というのが最新の科学的知見だ。」と主張しているのです。
 その債権者に対して「伊方原発敷地を、650ガル以上の地震動が襲うことを、その時期と共に予測し、立証しろ」というのです。
 ここで再び、政府・中央防災会議のワーキング・グループ(WG)が中央防災会議に提出した報告書を引用せざるをえません。

「現時点においては、地震の発生時期や場所・規模を確度高く予測する科学的に確立した手法はなく、大震法に基づく現行の地震防災応急対策が前提としている確度の高い地震の予測はできない。」。

 すなわち、「②」の保全要件を満たすことは、債権者はおろか、中央防災会議の専門家でもできない不可能事なのです。「吉岡決定」は不可能事を保全要件としていることになります。
 要するに、吉岡決定は、①「無意味な要件」にしても、②「不可能事が要件」にしても、現実にはありえないことを保全要件としています。
 日本国憲法が国民一人一人に与えた権利、「人格権に基づく妨害予防請求権」を無意味な権利、実際には何の効力も持たない無効な権利としようとしていると読むことができます。
 吉岡決定の下では、私たち国民は、原子力事業者に唯々諾々と従う経済奴隷の様相を帯びてきます。
 吉岡決定を戦後最悪の司法判断の一つ、と位置付ける大きな理由です。

反憲法的な吉岡決定

 吉岡決定はひと言でいえば、反憲法的な性格を色濃く帯びています。

 福島原発事故を機に2012年6月27日、環境基本法13条の放射性物質適用除外規定が削除されました。このことの意味は、日本で初めて放射性物質が公害原因物質として位置づけられたということです。

 「立証責任転換論」は四大公害裁判を通して定着していきました。昭和48年度版(1973年)環境白書には「四大公害裁判の教訓」という項目が設けられ、その中で「・・・少なくとも人間の生命、身体に危険のあることを知りうる汚染物質の排出については、企業は経済性を度外視して、世界最高の技術、知識を動員して防止措置を講ずべきであり、そのような措置を怠れば過失は免れないと解すべき」とする四日市公害裁判の判決の趣旨を引用しています。

 この精神こそ日本国憲法の理念にかなうものではないでしょうか。

 この日本国憲法の理念から、「立証責任転換論」が生み出されたのです。

 吉岡決定は「立証責任転換論」を採用せず、「四大公害裁判の教訓」を踏みにじりました。四大公害裁判の闘いが長い年月と多くの犠牲を経て獲得した成果を無価値とし、事実上人格権に最高の価値を置くという憲法上の法理を尊重しなかったのです。

 以上見てきたように、吉岡決定は日本国憲法の精神と理念を真っ向から否定しています。

 このような司法判断は永久に葬り去らねばなりません。

以上


伊方原発
【写真説明】四国電力伊方原発。左から1号機、2号機、3号機。1号機と2号機は廃止措置が決定している。

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