被爆地ヒロシマが被曝を拒否する伊方原発運転差止広島裁判
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「ふるさと広島を守りたい」ヒロシマの被爆者と広島市民が、伊方原発からの放射能被曝を拒否し、広島地方裁判所に提訴しました

伊方3号機仮処分事件、松山地裁決定に関する
伊方原発広島裁判原告団声明


(1)
 2017年7月21日、炎天下の松山地裁前で固唾をのんで地裁決定をまった。地裁玄関から出てきた旗出しには「不当決定」「司法はもう福島を忘れたか」。負けた。それはまだいい。もし司法がその職分を尽くして負けたのなら。
貪るように決定要旨を読んだ。唖然とした。

この決定は一言でいえば、原子力規制委員会の判断に不合理な点はない、従ってその判断で適合とされた伊方3号機にはその運転において住民の人格権侵害の具体的危険性はない、というものだ。規制委審査をただ単に追認したに過ぎない。規制委自体が、適合性審査合格は当該原発の安全を保障するものではない、と述べているにもかかわらずだ。

決定はいう。「債務者(四国電力)は、それにもかかわらず、当該発電用原子炉の運転等によって放射性物質が周辺環境に放出され、債権者らの生命及び身体に直接的かつ重大な被害を与える具体的危険性が存在しないことを主張、疎明しなければならない」

(2)
決定は、四国電力がこの主張、疎明に成功したと述べているが、四国電力は自らその主張、疎明に失敗している。それは深層防護の第4層における防護策としてベントし、放射性物質を周辺環境に放出する極めて具体的な危険性があることを認めているからだ。

しかるにこの決定は、事実上規制委適合性審査に合格した原発は「万が一にも放射性物質を周辺環境に放出する具体的危険性はない」と事実上断じている。規制委も主張しなかった「原発安全神話」を他ならぬ司法が主張している。問題の中心は、伊方3号機は「万が一にも放射性物質を周辺環境に放出する具体的危険性はない」のか、あるいはその具体的危険性があるのかである。答えは自明であろう。もしその危険性がないのなら、第5層の防護策として位置づけられている避難計画も避難訓練も不必要であろう。

この明々白々な事実に松山地裁は目をつぶっている。本来日本国憲法に照らして、「万が一にも放射性物質を周辺環境に放出する具体的危険性があること」が、私たちの人格権を侵害しているのかどうかを判断するのが裁判所・裁判官の仕事であるはずだ。これなら裁判官も裁判所も日本には必要ない。

(3)
今回の事件では重要争点にはなっていないが、発電手段としての原発が、経済合理性を欠き、とてつもなく高くつく発電手段であり、これまで様々な政治的誤魔化しによって、その高コスト性を隠し続け、あたかも低コストの発電手段であるように見せかけてきたことは、もはや国際的な常識である。日本を代表する重電メーカー・東芝の事実上の倒産、あるいは世界最大の核コングロマリット、仏アレヴァ社の事実上の倒産はその象徴である。

また原発など核施設が放出する放射能は確実に人の生命・健康を蝕んでいく。原発はその意味で核兵器同様、不正義・非人道的な発電手段である。経済合理性に欠けることに加えその非人道性を重視した世界銀行は、福島原発事故後の2013年11月17日、その最大プロジェクトである世界的な電力インフラ網構築において、原子力発電プロジェクトを投融資の対象から外した。国際的には原発はその断末魔を迎えている。

日本国憲法を最高法規とする日本の法体系の中で最高の価値をもつ“人格権”侵害を判断する裁判官は、自分がいかなるテーマに直面しているのかを十分認識し、幅広い視野と見識をもとに原発問題と人格権侵害問題に取り組むべきである。

しかるに過日伊方3号にかかわる広島地裁決定同様、松山地裁とその裁判官にはその見識や幅広い視野などはかけらもなく、視野狭窄症気味にこの問題に相対している。その視野の狭さ、見識の低さは一般市民以下である。

ことは原発問題を越えて、日本の司法制度の根本的機能不全、民主主義社会の危機、といった様相を呈してきている。日本の裁判所と裁判官は、国民の不信と向き合わねばならない事態となっている。そのことが過日の広島地裁決定文、今回の松山地裁決定文に如実にしめされている。

(4)
私たちは、原告団が選出した4人抗告人(申立人)が、過日の広島地裁決定を不服として広島高裁に即時抗告を行っている。広島高裁の3人の裁判官には、豊かな常識と幅広い視野と高い見識をもとに、この問題と相対することをこころから願うものである。

2017年7月22日
伊方原発広島裁判原告団


伊方3号機仮処分事件、松山地裁決定に関する伊方原発広島裁判原告団声明

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