被爆地ヒロシマが被曝を拒否する伊方原発運転差止広島裁判
お問い合わせ

「ふるさと広島を守りたい」ヒロシマの被爆者と広島市民が、伊方原発からの放射能被曝を拒否し、広島地方裁判所に提訴しました



伊方原発広島裁判:最高齢被爆者原告、隅田正二さんが名誉原告団長に


2016年4月5 日(広島):
 四国電力伊方原発1号機から3号機の運転差止及び3号機の運転差止仮処分命令を申し立てている伊方原発広島裁判原告団は、原告中最高齢被爆者の隅田正二(すみだ しょうじ)さん(89才)を名誉原告団長に選んだ。同原告団は広島・長崎原爆被爆者、福島原発事故からのフクシマ避難者、広島の一般市民から構成されているが、原告団長の堀江壯(75才)も副団長の伊藤正雄(75才)も広島原爆被爆者。人工的な電離放射線による被曝被害をこれ以上広げてはならないとして広島市からもっとも近い伊方原発運転差止提訴に踏み切ったもの。原告団は名誉原告団長の隅田さんを、核兵器や原発を含むあらゆる核設備や核装置の廃絶・廃止を目指す全員の意思の象徴として位置づけている。

 隅田さんの略歴は以下の通り。

1926年(大正15年)7月14日、広島市研屋(とぎや)町(現中区紙屋町)で生まれる。
1944年(昭和19年)4月 旧制広島高等学校理科甲類入学
1945年 (昭和20年)8月6日 学徒動員中の呉海軍工廠の屋外で被爆。(爆心地から約30km)
1947年(昭和22年)3月 旧制広島高等学校卒業
1952年(昭和27年)3月 岡山大学医学部卒業
1953年(昭和28年)6月 医師国家試験合格
    同       岡山大学医学部耳鼻咽喉科学教室入局
1957年(昭和32年)9月 岡山大学医学部講師就任
1958年(昭和33年)7月 医学博士取得
1960年(昭和35年)3月 川崎病院川崎癌研究所耳鼻咽喉科着任
1961年(昭和36年)7月 東洋工業(現マツダ株式会社)付属病院耳鼻咽喉科着任
1962年(昭和37年)12月 隅田耳鼻咽喉科医院開設
1963年(昭和38年)1月から2016年(平成28年)3月まで
 約60年間の長きにわたって広島市立本川小学校、庚午小学校、己斐小学校、己斐東小学校及び広島市立己斐中学校の学校医を勤め、学校保健医療業務の第一線で活躍
1995年(平成7年)4月 日本耳鼻咽喉科学会広島県地方部会長及び広島県耳鼻咽喉科医会 会長に就任
2005年(平成17年)2月 医療法人・隅田耳鼻咽喉科医院設立、同時に理事長就任
      2016年(平成28年)3月 医療法人・隅田耳鼻咽喉科医院理事長辞任
2016年(平成28年)4月 伊方原発広島裁判原告団名誉団長に就任

なお隅田さんは、原爆被爆の体験について次のように記している。

「呉海軍工廠で作業中、8時15分、閃光と衝撃波を感じ咄嗟に地面に伏せた。続いてゴロゴロゴロと轟音が鳴り続き、西の方の空一面が夕焼け空のように濃橙色に蔽われ、驚きと共にただ事でないことが起きたと感じた。

翌8月7日、呉市警固屋の鍋港から小船で広島市宇品港に入り、宇品線の市電沿いに鷹野橋まで歩いた。そこから先、広島市中心部は火焔と灼熱のため、歩を進めることはできなかった。己斐の自宅(爆心地から約2.5km)の安否を心配しながら、五間道路沿いに急いだ。明治橋に近づくと水を求める形で川へ川へと黒焦げの人が沢山倒れていた。橋桁には死体が折れ曲がって重なっていた。この地獄のような情景は脳裡に焼き付いており、消し去ることは到底できない。

自宅にたどり着くと、頭に包帯を巻いた母が「よく帰ってくれた」と涙で迎えてくれた。己斐へ帰ってからは、家の周りで名前も分からぬままに被曝死する人が多く、モッコで担いで、己斐小学校校庭に掘った溝に運び荼毘に付した。

被爆70年以上経った今でも、被爆者は後遺症に悩み、また放射線障害による疾病の発現と、遺伝の影響を心配し続けている。「エノラ・ゲイ」が運んできた1個の原子爆弾の爆発によって、無念の死を遂げた一般市民をふくむ多くの被爆者の霊に代わって、“2度とこのような悲劇 を繰り返してはいけない”と叫び続ける・・・」

(以上)




2016年4月5日プレスリリースNo.008


ページのトップへ戻る